1960年創業当時から
2009年 社長交代までの
コダマの歩みをご紹介します。
児玉 昌弘 会長(左) ・ 会長夫人(右)
創業の想い
1960年に私が19歳でバフ研磨加工のお手伝いから始め、そしてメッキを手がけてもう64年になります。コダマは大阪市生野区で創業し、2度ほど規模拡大に伴い移転してきましたが、ずっと、生野区の地で商売をさせて頂いています。
生野区の産業は、個人経営の商店・町工場が多いのが特徴ですが、なかでも金属プレス加工・切削加工・ヘップサンダルやゴム製品関係の製造業が多く、代表的な中小零細企業の町です。私の父は職人の方と二人で金属製品のバフ研磨加工の仕事をしていました。
父は、とても腕のいい研磨職人でしたが、当時の研磨工場は、集塵機などの設備も貧弱で、作業環境も汚く、私には、この仕事は無理だと思っていました。私は夜間高校を卒業後に就職活動をしていましたが、母から、父の研磨の家業を手伝って欲しいと頼まれたのです。「私はこの環境や研磨作業の仕事はできない」だから、営業活動に出て仕事をもらってくることにしました。
父や職人さんの仕事の休みは、月に2日でした。集金日になると父は、お客様から頂いたお金でギャンブルにいくのです。一生懸命に働いて、豪快に遊ぶ。古き良き時代だったと思いますが、このまま父に経営を任しておくと破産すると思ったので、私が先回りしてお客様から集金しにいったのを覚えています。
しばらくすると、研磨の材料を購入している商社さんから声がかかり、「研磨より、メッキ屋やったらどうや」と助言を頂きました。私も「何となく、メッキ屋やったら、いいな」とその気になったのです。しかし、開業する資金は全くありません。今では、考えられませんが、資金がないことを材料屋の社長さんに相談すると「ワシが設備を買ってやるから、月賦で毎月、売上の中からナンボか返してくれたらええ」とおっしゃって下さったのです。そこからメッキ屋としてのコダマ(児玉鍍金工業所)が始まりました。
当初はドアノブや水道の蛇口を美しくみせる装飾メッキを手がけていました。当時は、今みたいな光沢剤がなかったので、無光沢のニッケル加工をしてから、バフ研磨で外観を光らしていました。その後に光沢ニッケルの添加剤が出来たのを覚えています。
しばらくは、ニッケルクロムメッキ加工が主力事業でした。当時の職人さんの休みは、なんと、月に2日間だけです。毎日一生懸命に働きました。私は、近所の工場を見つけては、飛び込みの営業活動をしていました。ドアやフックやハンドルなどの建築金物を取り扱っている会社の情報を聞けば、訪問し飛び込み営業の日々を過ごし、少しずつお客様もついて紹介もしてもらえるようになりました。
1970年頃には高度成長の波にのり、仕事も順調に推移し生野区の巽東の住所に1階が工場で2階が住居の工場兼住居を購入することが出来ました。そういった中、人の紹介でなんと1970年の大阪万国博覧会での万博の公式メダルのメッキ加工の仕事を受注できたのです。とても感謝しています。
大手自転車部品メーカー シマノさんのマウンテンバイクやロードバイク用の変速ギヤのメッキ加工を受注していました。設備も大量生産型のパールニッケルクロムメッキの自動搬送する自動機を導入し、事業は好調に進んでいきました。着々と装飾メッキ分野で実績を上げていきました。
時代は動くもの
時代と言えばご存知の通り、1990年前半に不動産、株式、バブル経済が崩壊しました。1991年ソ連邦崩壊で冷戦構造が終わったのが大きな分岐点ではないでしょうか。10年以上何も変わらず自転車の変速ギヤにパールニッケルクロムメッキを朝から晩遅くまで、社員と一緒に働きました。しかし、時代の流れが、大企業の東南アジアへの工場移転が活発となり、自転車のギヤのメッキ加工もそちらに移転する話が持ち上がりました。日本でこの仕事を続けるのは、東南アジアの安いメッキ単価と同等ならコダマでメッキ加工を任せる。と大幅なコストダウンを言われました。その時に、自転車の変速ギヤ製品のメッキ加工からの撤退を決意しました。
その他の仕事も、バブル経済崩壊と同時に毎年のごとく売上げが落ちていきました。その原因は明白でした。当時のコダマは、大量生産型の仕事を続けていただけで、新しい技術の取得や設備の導入も行わず、人材育成などもありません。人も10年前と何も変わっていなかったのです。「このまま、装飾部品のニッケルクロム中心のメッキだけを行っていれば、価格競争だけで自らの首を絞めて、いずれは潰れてしまう。」その当時、私は強い危機感を感じました。
そこで、大きな決断をしました。装飾メッキから撤退し、設備も技術もお金もありませんが、機能メッキ加工に転換することを決断しました。機能メッキが要望される製品は、耐食性、導電性、耐摩耗性など様々な特性をクリアする必要がありました。試作や少量多品種型も対応して、顧客評価、課題を解決し、量産加工のメッキ加工ができる会社に変わるということです。変わるには、工場の大量生産型の自動メッキ設備を廃棄しなくては、いけません。自動メッキ設備を廃棄し、お客様に事情を説明して周りました。そこから苦難の始まりでした。いきなり来月から売り上げの半分を占める得意先がなくなるんです。技術の習得や課題の解決など困難を極めました。
じっと我慢していても、じり貧で苦しいですが、変わることも毎月の赤字との闘い、資金繰りなど転換も相当の勇気がいりました。そして、自転車のギヤに変わるメッキの仕事を探していたところ、仏壇金具のブロンズメッキをやってくれるところを探していると言うお話を聞いて、ブロンズメッキを始めることにしました。ブロンズメッキとは、銅メッキ加工をして、後処理で硫化アンモニウムに浸漬して、硫化銅皮膜にして表面を手作業で磨いていました。
仏壇金具はブロンズメッキの他に金メッキの仕事もあり挑戦しましたが、当時の私の技術では出来なかったのを覚えています。金は薄くつけて、綺麗に仕上げる。そして単価を安くしないといけない。伝統工芸の京都や金沢のメッキ業者さんは上手で、負けてしまうのです。技術に感心したものです。経営状態は、まだまだ苦しい状況で、新しい技術や新しい仕事の受注先を模索する日々でした。
装飾メッキから機能メッキへ (人・物・金・情報)
その苦しい時が会社を変える。変革を思いたった時でした。「コダマを存続させるためには・・・」どうすればいいか。会社の方向性を考える中、藁をもすがる思いで大阪市工業研究所の榎本先生に知識とお知恵をかりに相談にいったのがキッカケです。榎本先生から、「コダマさんや大阪の多くのメッキ屋さんが取り組まれているのは、亜鉛メッキの防食メッキかニッケルクロムの装飾メッキかのどちらかだと思いますが、これからは、メッキに導電性や耐摩耗性など機能が求められる金メッキ・銀メッキ・半田メッキ・錫メッキ(スズメッキ)・無電解ニッケル・硬質クロムなどの機能メッキが伸びます。とアドバイスを頂きました。
新しい製品や難しい課題でもあきらめず、小さなサンプルをメッキ加工していくことにより、きっと新分野や機能メッキの量産に繋がるので、是非、機能メッキに挑戦されたらどうでしょう」というアドバイスを頂きました。もう榎本先生の言葉を信じるしか選ぶ道はありませんでした。「決断するなら、今しかない!装飾メッキをやめて、機能メッキの会社に生まれ変わる」と決断をいたしました。
そこから「メッキで機能を創造する」という言葉を社内に掲げ「本気でやろう!」と決意しました。やるからには中途半端はいけない。当社のような小さな町工場では余分な場所などありません。このまま自動機のニッケルクロムメッキのラインを残していたら結局は中途半端な改革で終わると思いました。だから主力の自動機をすべて廃棄しました。
しかしニッケルクロムメッキしか行ったこともなく、機能メッキのことは右も左もわかりません。榎本先生から「手始めに錫メッキ(スズメッキ)、半田メッキ、銀メッキを取り組めばどうでしょう。」というアドバイスを信じ、錫メッキ加工の試作をはじめました。
変革、設備・仕事の転換は10年かかりました。錫メッキ(スズメッキ)加工の試作を始めてしばらくすると、知り合いから錫メッキで困っているので相談したい。と依頼がありました。建築用のドリルネジで、打ち込み時のスピード(潤滑性を向上させたいとのこと、今現状のものでは打ち込み時にネジが焼きついて折れるトラブルがあるので解決してほしい。というものでした。
最初は単純に錫メッキ過去言うを行いましたが、ネジの打ち込みスピードが遅い。摺動性が全く合格しません。そこで試作を繰り返し、工程の変更と液組成を操作し合格することが出来たのです。このドリルネジは、スズメッキの売り上げの柱になっていきました。
まだまだ、売上も苦しい中、私は大学を卒業する長男を大手のメッキメーカーで修行させたいと思い、榎本先生に相談し、東京の株式会社三ツ矢さんでお世話になることになりました。技術の習得だけでなく、大きな会社の仕組みや社会での経験を味わせたかったからです。私も三ツ矢の草間社長にお礼に伺いましたが、社長は幅広い見識をもった人格者で息子もこの会社ならよき先輩、よき環境で鍛えられて、勉強になると確信しました。
一方工場の方は、転換のための資金集めに苦労していました。当時の工場は2度移転して、やっと買った100坪弱の小さな工場で、それ以外の資産はありません。ですが、なんとか工場を担保に1億円借りることが出来ました。その後は少しずつですが、小さなサンプル試作の話を頂いて、課題をクリアして、量産に繋げていくことができました。錫メッキの次は、硬質クロムメッキ、ガラクロムメッキの開発に成功し、徐々に設備の転換が可能になっていったのです。
情報(インターネットの活用)
今までの営業活動、新規開拓は、私が飛び込み営業するか、ネジ名鑑やプレス工業会の名簿を入手して、電話作戦をしていましたが、効率が悪く成果も出るのには時間がかかりました。精神的な疲労も大きい割には、効果が低いと感じていました。そこで息子からは、これからはホームページを充実させることで、お客様からご相談いただける営業スタイルに変えることを提案されました。東京から帰ってきた長男に新規営業開拓を任せました。長男は、従来の飛び込み営業や電話作戦のやり方は廃止し、ホームページで新規お客様を獲得する方法に注力するようになりました。
立ち上げ当初はWindows95が出て間もなくの頃で、大阪市の助成事業で企業ホームページを作成してくれると聞き、申し込みました。業者に全てお任せしてページを作成・管理して頂いたホームページでした。2001年に、いち早くホームページを立ち上げましたが、まだ発注者サイドにITへの取り組みが浸透していなかったこともあり、問い合わせが受注に結びつくことはありませんでした。
そんな時に鍍金組合の事業でホームページ作成の講座があると聞き、人任せではなくホームページを自作でリニューアルしようと始めたのが、コダマホームページの原点です。当時は、大阪近辺のお客様とお取引しているのがほとんどです。インターネットを新規顧客獲得のツールとして活用したいと考えていましたが、ホームページを自作で作ったものの問い合わせはほとんどありません。
本当に問い合わせがないのは、企業の取り組みが浸透していないためなのか?と考えました。そこで、商工会議所に積極的に足を運び相談をしたり、インターネット上に存在するあらゆる製造業のホームページにアクセスして受注に結びつきそうなヒントを探し回りました。わかったことは会社紹介、設備紹介、カタログのようなホームページは役に立たないということでした。
昔からメッキ屋は受託加工で、口をあけて待っていたら、お客様が仕事を持ってきてくれる。黙っていても、仕事があるのが普通でした。新規で飛び込み営業ですが営業活動をしているコダマは、頑張っている部類だと思います。しかし世の中が不況になり、受注が激減し待っているだけでは仕事がありません。新規の仕事を受注しなくては、必ずじり貧になる。
ホームページに営業マンの役割をさせたいと考え、日々自社の「強み」を見つけては、コンテンツに反映させていきました。お客様は何を求めているのか?「自社の技術でこだわった部分はどこか。特化した部分はどこか」メッキのQ&A、お困り事例、解決事例などを公開しました。
どんな小さな会社でも強みはあります。うちには優れた人や技術や設備は何もない。というのはありません。技術を評価するのはお客様なのです。自分で「たいした技術ではない」と思う技術がお客様にとってかけがえのない技術かもしれないのです。
足りないことはお金や技術や設備や人ではなく、情熱ではなかったのか。と考えました。商売のこと、技術のこと、こだわっていること、を社員からヒアリングし、文章にすることで、ホームページを通じて、多くの方に自分の思いが伝わり広がっていきました。
社内改革 ISO取得への挑戦 人財育成 コダマの品質管理の取組
私の会社は、長い間、個人経営でやってきて会社としての仕組みもなく、ずっと私の掛け声のもとメッキ職人さんの永年にわたる技術とノウハウで、仕事をこなしてきました。しかし、「このままでいいのだろうか?」と考えていました。「職人さんが仕事が出来なくなったらどうする?世代交代をしていかないといけないことはわかってはいるが世代交代する若い人がいない。
細かな技術までどうやって残していけるだろうか?」また対外的にも問題が出てきました。当時、よくお客様から書類の提出を求められるようになってきたのです。「書類1つ作るのも時間かかり、お客様の監査もある。作業の記録もきちっと取れていない。」
以上のような、様々な課題がコダマにはありました。そこで、最近よく耳にしていた、ISOの話がメッキ組合のセミナーであると聞き、参加したのです。「ISOは、まだまだ大阪のメッキ業界でも大手、中堅のメッキ会社しか取得していませんでした。
コダマでも取得できるのか?取得すれば、会社が具体的にどう変わるのか?」不安や疑問点もあり、参加した後、いろいろな情報を集めました。そうすると、今までコダマの課題であった社内管理システムの構築、技術の標準化、安定した品質、納期が実現できるというのを教えて頂きました。ISOの規格の中に、含まれていることがわかったのです。
だったら、挑戦してみようじゃないか!「努力すれば、叶わざる事なし!」そのような思いで、決意いたしました。しかし、セミナーでISOのことはある程度わかったものの、実際に何を取り組むべきかどのような仕組みを作れば良いか、全く検討もつきませんでした。
ちょうどその時、同じ南支部の土井鍍金さんがISO9002を取得されたと聞き、相談にいきました。土井社長にISOに取り組む考え方や取得後の社員意識の変化を聞き、俄然勇気が湧いてきました。そのことでISOに取り組む決意が固まり、平成12年にISO9002認証取得へのキックオフ宣言をしました。
仕組みを構築するにあたり当時ISOのコンサルタント会社に依頼すると相場で年間5・6百万円かかりました。その金額を掛けるほどの余裕がなかったため、基本的にはコンサルタントに頼らずに自力で取得を目指し、わからない部分が出てきた時は土井鍍金さんに相談に行くことにしました。
その後ある程度システムが構築されてきた時に、大阪府中小企業支援センターでISOの専門の先生を企業に派遣して頂ける助成金の制度に申し込みました。大阪市が3分の1負担、国が3分の1負担、コダマが残りの3分の1の8000円の負担で、マニュアルや規定類のチェックをして頂きました。
ISOの品質マネジメントシステムの導入により、技能の部分についても、製品の形状、重さ、材質など様々な条件で細かなコツや勘を、作業標準書などである程度、標準化することが出来ました。
課題としては、現状の起こったことに対する処置が多く、積極的な継続的改善や予防処置などが まだまだ少ないということです。今までのワンマン経営から役割と責任を与え、ISOを人材育成のツールとして利用し、社員ひとりひとりが自分で考え判断できる人材になってきました。それがコダマのISO認証取得の最大のメリットではないでしょうか。
事業承継と理念経営の開始
2009年 リーマンショックの際に、私が会長に退き、社長に長女が就任しました。世界中で多くの会社が倒産や売上げの激減、この期はコダマも大きな赤字に陥りました。これから厳しい船出をどう乗り越えていくか。長女は2人の弟と会議を持ちました。
「これからは3人で進んで行かなあかん。どうやって生き残るか。良い会社、元気な会社の共通点はどこか?」そんなことを話し合いました。良い会社、元気な会社は、共通の価値観、方向性をもって、力を合わせている。人材採用・育成に力を入れて、社員が輝いている。経営理念やクレドというものがある。ということがわかりました。
だから、私たちもコダマの経営理念を作って、その実践を共にやってくれる若い人材が必要だと感じました。これからは、ベテラン、中堅と協力し、新しい変革を実施する若い人材と一緒に進んでいかないとダメではないか。そんなことを話し合いました。そこから生まれたのが経営理念 「コダマ宣言」です。2010年 初めての新卒採用で5名の大学生を採用することが出来ました。今では、毎年新卒採用で多くの学生さんが入社してくださり、各課のリーダーとして育ってくれています。
コダマ宣言の冒頭ではこう語っています。
『コダマ宣言は私たちの基本理念であり、行動の指針となるものです。私たちはこれを共有し実行することによって幸せを創造します。』毎朝の朝礼で理念の唱和や全体会議では理念の勉強会を行っています。今は社内全体が家族のような温もりに満ちています。まさに全社員がコダマファミリーです。これからも、メッキ技術を通じて、世界中の人がより快適に生活できる夢の社会の実現に向けて、少しでも貢献したいと考えています。
2009年に社長交代し、私の時代から人材採用、人材育成、新しい技術の取得、新工場の竣工、設備投資など大きく変わりました。これからも、お客様の期待にお応えできるよう引続き努力してまいります。何卒変わらぬご支援とご鞭撻を賜りたく、よろしくお願い申し上げます。